『親鸞聖人』アニメに学ぶ 聖人の歩まれた道
落ち武者との対話

比叡山。根本中堂から、
親鸞聖人ご修行の地、大乗院への続く山道
「醜い心を抱えながら、上辺だけを取り繕って、仏の眼を欺こうとしているこの親鸞こそ、偽善者ではないか」
(アニメ『世界の光・親鸞聖人』第1部より)
日夜、厳しいご修行の聖人が、ある時、山中で朝帰りの僧侶たちに出会われる。
源氏の追及を逃れ、にわか坊主となって比叡山に潜んでいた平家の落ち武者である。夜な夜な山を抜け出し、祇園や島原の遊女と戯れていたのだ。
「親鸞殿もたまには、息抜きに行ってこられたらどうじゃ。そなたみたいないい男、女子のほうで離さんぞ」
赤面される聖人に、
「お、赤くなったぞ」
「叡山の麟麟児も、煩悩には勝てず、か」
と、はやしたて、去っていく。心のうちを見透かされ、聖人の胸中は激しく動揺した……。
悪い行為の根元
夜な夜な山を下り、遊女と戯れては朝帰りする者たち(平家の落ち武者)を目にされた聖人は、
「オレだけでも戒律を守り抜くぞ」
と決意されます。
ところが、一心に仏を思い浮かべる修行中も、赤山明神で出会った女性の顔や声が思い出され、煩悶される日々。
ある日、朝帰りの僧侶たちに声をかけられ、体では、修行しているが、心中、女性を思い続けている自己に愕然とされました。
「オレは、体でこそ抱いてはいないが、心では抱き続けているではないか。それなのに、オレほど戒律を守っている者はないとうぬぼれて、彼らを見下している」
「醜い心を抱えながら、上辺だけを取り繕って、仏の眼を欺こうとしているこの親鸞こそ、偽善者ではないか」
法律や道徳では、どんな悪い考えを抱いていても、それだけでは問題になりません。
しかし仏教では、心と口と体の三方面から、私たちを評価します。
中でも重視されるのが心。それは、体や口の行いは、すべて心の命令によるからなのです。心で思わないことを、体や口がやったり言ったりはしません。
「殺るよりも 劣らぬものは思う罪」
といわれ、実際に体で殺すより、「あいつ死んでくれたら」と心で殺す罪のほうが、もつと重いと教えられます。
悪い考えこそが、体や口の悪い行為の根元だからです。
心では悪を造り続け
親鸞は、形の上では修行している。しかし、思ってはならぬと抑えれば抑えるほど、女性のことが思われてくる。心のままに行動している平家の落ち武者以上に、心では、悪を造り続けているのではないか。そんな自分が彼らを見下しているとは、何たることか。
「ああ、この心、一体どうしたら〜」
自己の悪性を見せつけられた聖人は、悲泣なさらずにはおれなかったのです。
(つづく)
